企業が持続的に成長するためには、環境の変化に対応しながら新たな価値を創造し続ける必要がある。人材が企業価値向上の源泉であり不可欠な存在であると定義しているのが「人的資本」という考え方だ。本記事では、人的資本の定義や注目されている理由、世界的な流れとなっている人的資本の情報開示などについて解説する。
目次
人的資本とは
「人的資本:Human capital」には明確な定義がないが、経済産業省の「人的資本経営」から読み取ると、自社の社員が持つ知識やスキル、資質などといった「人材」の要素を、企業の付加価値の源泉となる「資本」として捉える考え方である。
人的資本の歴史
人的資本についてはアダム・スミスの『国富論』で18世紀に触れられており、職務遂行のために教育を受けて訓練された人材は、高価な機械に似ているとされた。20世紀になると、経済学者であるセオドア・シュルツやゲーリー・ベッカーらによって、人的資本が再定義されることとなった。
人的資本と人的資源の意味の違い
人的資源とは、人材を「資源」と捉えて管理するという考え方である。人材はあくまで収益を生み出すために支払うコストであり、限られたものをいかに効率的に運用するかという点が重視されている。人材は消費するものとして扱うような考え方だ。
人的資本では人材を「資本」として捉える。人的資本は、教育などによって能力を伸ばして価値を高められる人材の要素であり、事業環境によっては必要に応じて外部から登用することもできると考えられている。
人材は継続的に育成し、最適な部門に配置することよって、企業の持続的な成長に必要な価値創造の源泉になるという点が人的資源と異なる考え方だ。
人的資本が注目されている理由3つ
人的資本への注目度が高まった背景には、社会的な3つの変化が関係している。
1.ダイバーシティ経営の推進
「ダイバーシティ:Diversity」は日本語で「多様性」という意味だ。企業経営においては、年齢や性別、人種、価値観などの人に関するさまざまな違いのことを指す。働き方改革の中でもダイバーシティの推進が明言されており、経済産業では以下のように定義される「ダイバーシティ経営」の推進を奨励している。
多様な人材を活かし、その能力が最大限発揮できる機会を提供することで、イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営
引用:経済産業省『ダイバーシティ経営の推進』
人材はもちろん、働き方の多様性も高まっている環境下では、社員それぞれの価値観や潜在能力を認識した上で、特性を活かした人材育成や配属が欠かせなくなっている。
2.キャリア形成の多様化
人材の流動性が高まる中で、キャリア形成の多様化も進んでいる。
日本ではこれまで終身雇用が一般的であり、総合職として幅広い業務を行うような「メンバーシップ型雇用」が採用されてきた。しかし、グローバル化やIT化など産業構造の変化により、専門的なスキルを保有する人材を採用する「ジョブ型雇用」が注目されるようになっている。
企業側も変化に対応する必要に迫られており、社内人材の育成だけでなく外部からの人材登用が一般化しており、人的資本の流動性も高まっていると言えるだろう。
社員それぞれが自分なりのキャリア形成目標を持ち、離職などが起こる中で、企業側は人的資本の重要性を意識して、採用や育成、後継者育成などにこれまで以上に向き合わなければならない。
3.ESG投資の世界的な広まり
ESG投資の世界的な広まりによって、企業価値の判断基準として無形資産にも目を向けられるようになった。ESGは、「Environment(環境)」「Social(社会)」「Governance(ガバナンス)」の3つから成り立っており、人的資本は「Social」に該当する。
投資家は財務諸表などで見てとれる財務以外の情報として、事業の将来性を左右する人的資本の可視化はもちろん人材戦略の開示も求めるようになっている。
ESG投資の普及や欧米での人的資本情報開示の流れもあって、東京証券取引所は、2021年に『コーポレートガバナンス・コード(CGコード)』を改訂しており、企業の人的資本情報の開示についての項目が新たに盛り込まれた。
人的資本の可視化と情報開示
コーポレートガバナンス・コードの改訂など、企業は人的資本の可視化を行った上で、ステークホルダーへの開示が必要になってきている。この流れはどのようにして起こったのだろうか。
なぜ人的資本の情報開示が求められるのか
米国証券取引委員会(SEC)は2020年8月に『Regulation S-K』において、アメリカの上場企業に対して事業運営で重視している人的資本の取り組み状況や目標について情報開示することを義務化した。
人的資本は、企業の成長に関わる事業戦略を実行するために欠かせないものであり、投資家が企業を投資先として適切か否かを判断するための重要な情報と定義したのである。
欧州においても、2022年4月に欧州財務報告諮問グループ(EFPAG)が『欧州サステナビリティ報告基準(ESRS)』の草案を公表しており、人的資源情報の開示の制度化を進めている。
人的資本開示とISO30414
ISO30414は、2018年12月に定められた人的資本の情報開示ガイドラインであり、人的資本を「社内で議論すべき、社外へ公表すべき」指標として位置付けている。求められているのは、人的資本の企業における貢献度を可視化して、透明性高く外部に公表することだ。
ISO30414では、以下の11の領域で58項目の人的資本の情報開示が求められている。
- コンプライアンスと倫理
- コスト
- ダイバーシティ(多様性)
- リーダーシップ
- 企業文化
- 労働安全性、安全、福祉
- 生産性
- 採用、異動、離職
- スキルと能力
- 後継者育成計画(サクセッションプラン)
- 労働力
人的資本の情報を開示するメリット
人的資本の情報開示はガイドラインに従って実施するため手間がかかる。しかし、大きく3つのメリットも得られる。
投資家やステークホルダーからの信頼向上
人的資本情報を開示する最大のメリットは、投資家やステークホルダーから無形資産である人材についての評価を得られる点にある。信頼性の向上は企業ブランドの強化にもつながり、競争優位性を確保する助けとなる。
企業価値判断は収益性や事業安定性などがまず評価され、付加価値として人的資本が評価されることがほとんどだろう。そのため、中小企業にとっては人的資本の情報開示メリットは少ないと感じるかもしれない。
しかし、人的資本の透明性を高めれば、企業の経営方針や社員の育成や活用に対する取り組みが明確になり、長期的な視点で企業を評価する投資家に対して好印象を与えられる。
また、社員のスキルアップやキャリア開発に積極的に取り組む企業は、持続可能な成長を目指していると判断されやすく、将来的な成長性や安定性が高いと見なされます。結果的に、中小企業でも投資家からの関心を引きやすくなり、資金調達の機会が増える可能性がある。
優秀な人材の獲得と定着率向上
人的資本の情報開示は、求職者に対して企業の魅力をアピールする手段となる。企業がどのように社員を育成し、キャリア開発を支援しているかを明示することで、優秀な人材の興味を引けるだろう。
デジタル化に伴って、求職者は企業が提供する成長機会や働きやすい環境を重視する傾向にある。人的資本に関する情報を公開すれば、企業が社員を大切にし、長期的な成長をサポートしていることを示せるため、求職者はその企業で働く魅力を感じやすくなる。
また、既存の社員に対しても、自身の成長やキャリア開発のサポート内容が明確になるため、モチベーションの向上やエンゲージメントの強化が期待できる。結果的に、離職率の低減や人材の定着が図られ、企業の人材戦略が一層強固になるであろう。
組織の持続的成長と改善の促進
人的資本の情報開示をすると、改めて自社人材のスキルレベルや人材配置について再確認する機会が得られる。それによって、「リスキリング」などの育成計画策定や人材配置の抜本改革など、ただの人事活動ではなく事業革新につながる人材戦略の策定に役立てられるだろう。
また、外部からのフィードバックを受ければ、新たな視点やアイデアを取り入れることができ、組織全体の成長も促進できる。
人的資本の情報開示は、企業文化の透明性を高めるとともに、従業員のエンゲージメントを強化し、持続的な改善のサイクルを確立する助けとなる。
人的資本経営とは何か
人的資本経営とは、企業の成長と競争力を高めるために、従業員のスキル、知識、経験、モチベーションなどの人的資本を最大限に活用し、戦略的に管理する経営手法だ。
経済産業省は「人材の価値を最大限に引き出す」というテーマとともに、人的資本経営のあり方を説いている。
人的資本経営では、人材育成はもちろん組織の最適化などといった人材戦略を策定、実施し、人的資本についてステークホルダーへ開示していかなければならない。
企業は、人的資本の価値向上が必須だ。そのためには、中核人材の育成方針を定めて社内の環境整備を行い、研修などの学びの機会を与えて定期的にフォローを行いながら成長を促すことが必要である。
人的資本経営の具体例
Googleは人的資本経営の成功例としてよく挙げられており、社員の成長と満足度を重視して以下のような取り組みを行っている。
・20%ルール
Googleの「20%ルール」とは、社員が通常業務時間の20%を、自身の興味や関心に基づくプロジェクトに充てることを許可する制度だ。このルールは、社員の創造性とイノベーションを促進するだけでなく、自分が学ぶべき項目の取捨選択などにも生かされている。
・OKR(Objective and Key Result)
OKRは、「Objective(目標)」と「Key Result(主要結果)」の略で、Googleが採用する目標管理手法だ。Objectiveは達成したい目標を設定し、Key Resultはその目標を測定する具体的な結果を示す。
・SIY(Search Inside Yourself)
Googleが提供するマインドフルネスと情動知能(EI)を高めるための研修プログラムだ。元エンジニアのチューデン・メン・タンが開発したこのプログラムは、社員のストレス軽減、集中力向上、リーダーシップスキルの強化を目指している。
・福利厚生とワークライフバランス
無料の食事提供、フィットネスセンターの利用、育児支援プログラムなど、従業員の健康と生活を支えるための福利厚生が充実している。
人的資本の価値を高める方法
人的資本は自社の持続的な成長に欠かせないため、人材戦略を策定して価値を高める必要がある。ここでは、人的資本の価値を高める方法を解説する。
現状分析をした上で人材戦略を策定する
まずは、自社人材のスキルレベルや適性を分析した上で、人材育成や人材配置といった人材戦略を策定する必要がある。人的資本の価値は人材育成だけでは高まらない。経営戦略という上位目標に合わせて、必要な人材を明確化して人材育成と効果的な人事を行うことが重要だ。
人材戦略に沿って人材育成に取り組む
人員の再配置だけで人的資本価値を高められるとは限らないため、中核人材など優先的に育成すべき人材を選定した上で、育成プランに沿って研修などを行う必要がある。
育成目標は自社の経営戦略によって異なり、経営革新に必要なスキル修得を目指すリスキリングはもちろんスキルの標準化を目標とすることもあるだろう。必要なことは、育成目標を明確にした上で、社員の適性に合わせた教育プログラムを選ぶことだ。
人材育成は研修などで学ばせるだけでは完結しない。新しく学んだスキルを発揮できる業務を担当させるなどしながら、定期的にフォローすることが重要だ。
社員のワークライフバランスを支援する制度の導入
人材育成だけでなく、社員のワークライフバランスを支援する制度の導入も欠かせない。フレックスタイム制度、リモートワークの推進、育児休暇や介護休暇の充実など、社員が仕事と私生活を両立できる環境を整備することが重要だ。
ワークライフバランスを整えることで、社員のストレスが軽減され、仕事に対する満足度とエンゲージメントが向上し、離職率の低下や生産性の向上につながる。
ダイバーシティとインクルージョンの推進
「ダイバーシティ(多様性)」と「インクルージョン(包括性)」の推進も、人的資本の価値を高めるための重要な手段だ。異なるバックグラウンドや視点を持つ多様な社員が活躍できる環境を整備することで、創造性と問題解決能力が向上し、企業の競争力を高められる。
具体的には、採用プロセスでの多様性の確保、インクルージョン研修の実施、社員の多様なニーズに対応する柔軟な働き方の導入などがある。
人的資本についてのQ&A
人的資本の具体的な例は?
人的資本の具体的な例としては、社員個人が修得している技能や技術レベルを証明する各種資格などがある。
人的資本に投資することで企業の持続的な成長につながり、情報開示によって企業活動の透明性を証明できるため、ステークホルダーとも良好な関係を築けるだろう。
人的資本の考え方は?
人的資本では、人材を「資本」として捉えており、人材育成や最適配置などによって高められる社員のスキルや資質などで、事業の持続的な成長に欠かせないと考えられている。
企業は、人材について事業計画を実行するための重要な存在と認識した上で、人材育成はもちろん適切な処遇での雇用や新規採用、後継者の育成計画などを進めなければならない。
人的資本経営では何をする?
人的資本経営では、企業の中長期的な成長を目的とした人材育成や人事などの人材戦略の策定を行い、人的資本の可視化を行ってステークホルダーに開示することが求められている。
産業構造の急激な変化は避けられない状況であり、変化に対応しながら事業を存続させるには、事業ポートフォリオの見直しはもちろん、必要な人的資本の明確化と人材戦略の構築が不可欠だ。また、人的資本の情報開示は世界的なトレンドであり、欧米での開示義務化を受けて日本でもコーポレートガバナンス・コードが改訂され、開示の義務化が進んでいる。
人材戦略を策定と人的資本の可視化を目指そう
人的資本とは、人材が企業の持続的な成長に欠かせない存在であると認識し、継続的な育成と最適配置によって価値を高められるという考え方である。
人的資本情報の開示は世界的なトレンドであり、日本でもコーポレートガバナンス・コードによって開示が求められている。まずは、自社の現状を分析した上で経営戦略の再確認と再構築を進め、人材戦略の策定や人的資本の可視化を目指してほしい。
隈本稔(キャリアコンサルタント)