1年前の2021年1月12日に、”量子ソフトウエア開発を容易にする技術を提供するClassiq”という記事を書いた。この企業は、2020年4月にエリート教育プログラムである”タルピオット”の卒業生2名ともう1名の3名で創業し、わずか1年の間に5つのVC(ベンチャーキャピタル)から15.75Mドルの資金調達をしている。そのうちの1社は、日本の住友商事が立ち上げたIN Ventureだ。タルピオット卒業生が創業した企業であること、量子コンピューターという最先端分野であること、日本のVCが投資していることの3点から注目してきたが、昨年12月1日に株式会社NTTデータが”Classiqとともに、金融領域での量子コンピューターを利用したアプリケーション開発の効率化に向けた実証実験を開始した”というニュースリリースを発表した。信用リスク分析という金融工学分野での量子コンピューティングの可能性を評価する目的の協業のようだ。言うまでもなく、NTTデータは日本の金融システムを構築し、支えている中核企業であり、彼らにパートナーとして選定されること自体がClassiqの技術力を示すことかも知れないと考えたこと、また、量子コンピューターが遠い先の未来の技術ではなく、案外応用が近いのかもしれないと考えたことの2点から、年末に取材を申し込んだ。ありがたいことに快諾を頂き、対応してくださったのは以下の4氏である。
技術開発本部 矢実貴志氏、川又裕也氏
金融事業推進部 山本英生氏、立元優美氏
技術開発本部が先のニュースリリースの問い合わせ先だったのだが、オプション取引とか信用リスク分析という分野に筆者が全く馴染みのないことから、有り難い事に金融事業推進部の方にも同席いただけることになった。以下、筆者のとりとめのない質問に対して、4氏から丁寧に教えていただいたことをまとめてみる。
本当に量子計算が必要な分野があるのだろうか?
量子コンピューターとは、量子力学の現象を利用して計算を行うコンピューターである。メディアの話題として強く印象に残っていたのが、2019年10月23日にグーグルが発表した、”現在のスーパーコンピューターが1万年かかる計算問題を、彼らの量子コンピューターが3分20秒で解くことに成功した”という記事だ。文字通り、量子コンピューターなら異次元の計算能力が得られることを強く印象づけた出来事だった。計算速度が早いことに意義があることは間違いなく、よく計算量が膨大になるため解読できないと思われていた暗号が量子コンピューターなら一瞬で解けてしまう、というような記事は目にしている。しかし、現実の世界では経済合理性とは独立に速度や性能を追求できるのは軍事技術開発とか、気象予測のような公共分野のようなものだろう。NTTデータという民間企業が実証実験を行うということで、まず、産業界で現在の計算技術の延長では限界が見えている分野があるのか、本当にこのような桁違いの能力が必要とされる分野があるのか、という点から聞いてみた。
答えは極めて明確で、金融分野、特に市場取引に関わる領域は ”正しい計算を人より早く出来たほうが儲かる” というシンプルな世界なので、人より早く計算をするというのは根源的なニーズなのである、ということを教えて頂いた。特に、今回両者が共同で実証実験を行うオプション取引とは、株式のような商品を買う権利、売る権利を売買する取引である。例えば、今後株価が上がると想定されるときに、現在の価格で何月何日にその株を購入する権利を確保しておけば、将来利益を得られることになる。逆も同様で、株価が下がりそうだと予測するときに、現在の価格で将来株を売ることができれば損失は回避できる。当然ながら、そのためには『将来の予測』が必要となる。将来予測に基づいたオプション価格を評価するには、ブラック・ショールズ方程式という偏微分方程式を解くらしいが、そのときに、より多くのパラメータ、より多くのシナリオを含めたほうが予測の精度が上がることになる。例えば1万回に1度しか起こらないシナリオをシミュレーションするには、1万回計算せねばならない。そのような稀なシナリオにも目を配って予測の精度を高めるためには、計算能力は有れば有るほど良いことになるのだ。金融分野、特に市場取引に関わる領域は他者より優れた計算能力を持つ者が勝つ世界なのである。
NTTデータはClassiqをどうやって見つけたのか?
本題に入り、NTTデータはClassiqとどうやって出会ったのかを伺ったところ、取引先の金融機関からのご紹介ということだった。前述の通り、金融というのは「他者より優れた計算能力を持つ者が勝つ」世界なので、大手の銀行などには数学の博士号を持つような専門家のチームがいて、常に先端技術を評価しているらしい。シリコンバレーにオフィスがあり、有望な技術を持つスタートアップを探したり、調査研究を行ったりしているのが通常のことのようだ。そういった活動をする力のない金融機関は自ずと淘汰されるのだろう。そのような金融機関の幹部からClassiqをご紹介頂き、NTTデータとしても、面白そうな企業であると考えて彼らと実際に会ったのが昨年度だそうだ。
NTTデータは量子コンピューター自体を開発しているわけではなく、それを利用して如何にビジネスに役立たせるかを検討する立場に有る。Classiqの技術は量子プログラムの開発を容易にするプラットフォームであるため、コンピューターを利用する立場にあるNTTデータとしても”面白そうだ”と感じたという。2020年は、Classiqとしてもまだ創業間もない時期であり、殆ど実績もない企業と付き合うことに不安はなかったかを尋ねたところ、”無い”との答えだった。近年、NTTデータもスタートアップ企業を評価したり付き合ったりする機会は増えてきているという。そのような企業の持つ技術の中味やビジネス、企業自体を評価するという経験はかなり積み上がってきており、その目利き力には自信があるようだ。むしろ実績云々よりも、面白そうな技術は積極的に使ってみることが大事で、一つのスタートアップと付き合うと、その知り合いのスタートアップにつながる可能性も生まれる。そのネットワークの中に入っていること自体が重要と考えている、ということであった。そのような姿勢の日本企業が増えてきているのであれば、イスラエルのスタートアップ企業側も以前よりも日本企業との付き合い方が楽になっているのではないだろうか。
Classiqに対する評価は?
量子計算をビジネスに活かしたいと考えているNTTデータの立場から、Classiqの技術をどう評価するかについても伺ってみた。同じようなプラットフォーム技術を持っているところは他にも無くはないだろうが、ソフトウエアの開発容易性に着目し、強みを持っているプレーヤーは無いのではないか、という大変高い評価であった。現在量子コンピューターを使おうとすると、ある程度量子力学の理解も必要であり、そんな技術者が世の中に大勢いるわけではない。従って、量子の専門家でなくても利用できることを目指したツールという意味で評価できる、ということだ。また、そのようなツールを開発すること自体に量子力学の深い専門知識が必要であり、その技術力は高く評価できるということであった。早い時期から彼らに着目し、応援してきた立場としては、大変うれしい評価を聞かせていただいた。
では、彼らの提供する”量子ソフトウエアの開発容易性”とはどの程度のものと考えれば良いのだろうか? 量子ソフトウエアのアルゴリズムを開発するときに、通常の手法よりもClassiqのツールを使ったほうが楽にできるとすれば、その違いが一体どれくらいのものか、素人にも分かりやすいアナロジーが出来ないか伺った。若い人には想像出来ないかもしれないが、1940年代に開発された、現在のコンピューターの原型ともなるENIACというマシンには多数の真空管が並んでいて、回路の配線を切り替えながらプログラムを実行した。その後、論理素子は真空管からトランジスタへと進化し、1970年代にはパンチカードや紙テープでプログラムを読み込ませ、実行できるようになった。(余談だが、筆者は大学の実習でパンチカードを使ってプログラム作成をした経験がある。)少々乱暴な比喩かもしれないが、現在のClassiqの技術はこれくらいの改善レベルと考えれば良いらしい。つまり、量子アルゴリズムの開発とはENIACの配線を組み替えるようなものだったのが、Classiqのプラットフォームはパンチカードでプログラミングするくらいの容易さを提供できるらしい。パンチカードを知らない世代には実感がわかないかもしれないが、実際に使った経験者からすると大きな進化である。ただし、そのアナロジーからすれば、量子コンピューターの世界で、高級言語が開発され、キーボードから直接コマンドを打てる、というような現在のPC相当の段階に至るには、もう少し先が長そうではある。
量子コンピューターはいつ頃使えるようになるのだろうか?
では、一体いつ頃になれば量子コンピューターが広く使われるようになるのだろうか?無論このような予測は単純ではなく、専門家でも言うことにはばらつきがあるらしい。ただし、過去を振り返ってみると、技術の進歩は確実に前倒しされているそうだ。量子コンピューターには、量子アニーリングと量子ゲートの2つの方式がある。量子アニーリング方式のほうが先行して実用化が進み、2011年にはカナダのDWave社が実用化マシンを開発した。その時点では、その10年後に量子ケート方式で100量子ビット(量子情報の最小単位)のマシンができるとは誰も想像していなかったが、今現実に彼らは実証実験に利用している。このような経緯を考えると、案外量子ゲート方式の今後の開発も早く進むかもしれない、ということであった。NTTデータは両方の技術をフォローしており、市場のニーズも見ながら可能性のある技術には手を付けておかねばならないという問題認識だそうだ。
一方で、量子計算には「誤り訂正」という大きな研究課題もあることも教えていただいた。現在の2進法(0/1)のコンピューターで処理される情報の中には、誤り訂正に利用される”冗長ビット”が必ず含まれる。例えば8ビットのデータが伝送される途中で、そのうちの1ビットが本来”0”であるところが”1”に変化してしまったとすると、計算結果は全く異なるものになる。このようなエラーは伝送路にノイズが発生したりすることで起こり得る。そのエラーを検出し、訂正するのが”冗長ビット”である。8ビットがひとまとまりとすると、そのうち1ビットが冗長ビットに使われて、情報に割り当てられるのは7ビット、ということになる。8ビットであれば、256の数字を表現できるが、7ビットであればその半分の128でしかない。同じ課題が、量子コンピューターにも存在するのだそうだ。現在量子ケート方式のマシンが扱えるのは100量子ビット程度であり、それが将来10万量子ビットの世界になれば多少現実に意味のあるプログラムができるかもしれない。しかし、10万量子ビットがそのままプログラム計算に利用できるわけではなく、そのうちの一定割合は誤り訂正に利用されるとすれば、実行的に計算に利用できるのは1桁、2桁少ないかもしれない。誤り訂正にどれくらいの量子ビットを使うか、これがまさに現時点での大きな研究課題になっているそうだ。
上記以外にも、例えば、金融分野ではあまりスーパーコンピューターを利用しているという話を聞かないのはなぜか?化学の分野も量子コンピューターの応用に適している、量子コンピューターが金融サービスのセキュリティに与える影響など、興味深い様々な話を教えていただいた。NTTデータは技術とフィージビリティの両面から量子コンピューターの可能性を研究しており、イスラエル発の技術がそこに利用されて実証実験を共同で行うというのはイスラエルコミュニティにとっては大変嬉しいことである。今後、他者より優れた計算能力を持つ金融の勝ち組に、NTTデータとClassiqが寄与することを期待したい。