人気沸騰!激安オーダースーツの秘策
オーダースーツといえば1着10万円以上はしそうなものだが、オーダースーツSADAは2万4800円(+税)から。初回なら1万9800円(+税)からという破格の値段で、働く人たちから絶大な支持を得ている。
かつては勢いのあった紳士服業界だが、バブル崩壊後、1世帯あたりのスーツ購入額は右肩下がり。ピーク時に比べて7割も減っている。去年は大手4社がそろって赤字に転落。紳士服は冬の時代だ。
そんな業界にオーダースーツで風穴を開けたのがSADA。2011年に17億円だった売り上げは37億円と倍増。紳士服大手も続々と格安オーダースーツに参入しているが、SADAはそのブームの火付け役となった。
千葉ロッテマリーンズの本拠地、千葉市ZOZOマリンスタジアム。試合前のグラウンドでは、社長・佐田展隆(45)がマイクを握り、観客に店のPRをしていた。SADAはマリーンズの選手や監督が着る公式スーツを無償で提供しているのだ。
続いてスーツ姿で始球式に現れたのは、マリーンズのOBで野球解説者の里崎智也さん。現役時代にSADAのスーツを気に入った里崎さんは、引退後もオーダーしているという。
「僕みたいに大きいと、市販だとなかなかサイズが合うのが売ってない。SADAさんのところは頭の先からつま先まで全部調べてもらえてフィットする、体形に合ってくれる。僕みたいな体形でもすらっと見えるのは、メディアで仕事をしているのでありがたいです」
マリーンズのマスコット「マーくん」もSADAのオーダースーツだ。他にもサッカーJリーグの名古屋グランパスや柏レイソルなど、15のスポーツチームにスーツを提供。元サッカー女子日本代表、澤穂希さんが引退会見で着ていたのもSADAのスーツだった。
「SADAという名前が世に広まりやすい。すごくうちにとってはプラスになると思います」(佐田)
その魅力は安さだけではない。人気の秘密の一つは「高級テーラー並みの仕立て」にある。客がまず初めにするのは生地選び。いま並んでいるのは、秋冬ものだ。シーズンやトレンドに合わせ、SADAオリジナルの生地を200種類以上も用意している。
次にシングル、ダブル、それぞれ4種類からデザインを決める。背中の切れ目ベントはセンター、サイド、なしの3種類。さらに袖口のボタンは、3つと4つ。付け方もノーマルから重ねボタンまで自由に選べる。
そしてオーダー最大のポイントが採寸だ。この日、採寸していたのはこの道50年のベテランスタッフ。客の好みを聞きながら、全身およそ20カ所を採寸していく。胸囲の次は袖丈。左右の腕の長さが違う人もいるので、両腕を採寸する。
例えば、お尻に筋肉がついているため、既製服はウエストに合わせると入らないという人の場合に行うのが「出尻」という補正。お尻側の生地を長くとることで、お尻回りに余裕をもたせることができる。そのほか、怒り肩やなで肩、猫背、はと胸など、姿勢や体形にあわせてミリ単位で調整する。だから、高級オーダーと変わらない、体にフィットしたスーツが実現できるというわけだ。
革命起こした安さの秘密~オーダースーツで業績アップ企業も
SADAのもうひとつの特徴は「マシンメード」にある。SADAは宮城県と中国・北京の2カ所に自社工場を持っている。工場では、店から送られてきた採寸データをパソコンに入力。すると、CADというシステムで、スーツの型紙が自動ででき上がる。これをパソコン上の生地に配置していく。
スーツ1着分でパーツは30ほど。生地はマシンが自動で裁断。以前は手仕事だったこうした工程をオーダースーツで機械化したのは、SADAが先駆けだという。マシンができるところは自動化してコストを削減しているのだ。
一方、肝心の縫製は人の手で行う。支えているのはベテランの女性たち。長年培ってきた熟練の技が高い品質を生んでいる。作業は分業制になっていて、パーツごとに専門職がいる。ポケットのふたの部分、フラップを作るポケット担当の栂瀬登喜江さんは「柄をぴったり合わせる。難しいです。9年やってようやくです」と言う。
出来上がりまではおよそ1ヶ月。製造から販売まで一手に手掛けるから、中間コストがかからない。これが質の高いオーダースーツを破格の値段で販売できる秘密なのだ。
SADAのオーダースーツで業績がアップしている会社もあるという。
千葉市のボルボ・カー千葉中央店の営業スタッフが着ているのはSADAのオーダースーツ。ボルボの販売店「東邦オート」では、系列7店舗の全営業マンにSADAのオーダースーツを支給している。営業の齋藤友也さんは「営業は接客だから、スーツは武器のひとつだと思います。きっちり着られるかどうかで第一印象が変わる」と言う。
客からも「印象は大事」「車を安心して買える」と好評だ。
「いったんお客さまとお話して、もう一度ご来店されるというのがすごく増えた。スーツを作ってから、売り上げも毎年120%で増えていると思います」(三箇秀健支店長)
一方、ウェブ制作会社社長「アイランドマーケティング」の島沢良さんはこだわりのオーダーをしている。それが袖のボタンホールの赤いステッチ。
「『それ、おしゃれですね』みたいな話から入っていって、話のネタになる。テーブルを温める役割もスーツにはあるのかなと思います」(島沢さん)
ビジネスマンを中心に新たなオーダースーツ市場を開拓しているSADA。全国に53店舗を展開し、急成長を続けている。
赤字転落、親子の確執、借金25億円…4代目が歩んだ「茨の道」
SADAの池袋店は雑居ビルの4階にある。横浜店は雑居ビルの3階。新宿店も4階だ。
「人通りが多くて一等地ではあるんです。ビル上になると坪単価が3分の1に下がる。家賃を抑えた分、売値を安くした方がお客様のためになるんじゃないかと」(佐田)
店内も採寸と商談ができればいいので、広くなくても大丈夫。オーダースーツ専門だから、商品をたくさん並べるスペースもいらない。
また、出店場所は、大手のスーツ専門店の目と鼻の先を選んでいる。
「こういった会社さんが近くにあるということは、このエリアにスーツ市場があるという最大の証拠なので、近くにあるというのが安心なんです」(佐田)
業界の常識を破った佐田には道標とする言葉がある。それが「迷ったら茨の道を行け」。その言葉どおり、「茨の道」を歩んできた。
「佐田」の創業は大正末期の1923年。背広と呼ばれるスーツが、広く着られるようになったころだ。戦後は洋服生地の卸と、町のテーラーからオーダースーツの縫製を請け負う下請け工場として成長してきた。
そんな佐田家の4代目として誕生したのが展隆。幼いころから、祖父・茂司に繰り返し聞かされたのがあの言葉だ。
「『展隆、男なら迷ったら茨の道を行けよ、それが正解だから』と散々言っていた。なんでこんなこと言うんだろうと、小さいときは思っていました」(佐田)
80年代後半、バブルがやってくるとスーツ業界は絶好調。「アルマーニ」やDCブランドなどの1着10万円以上する高級スーツが飛ぶように売れ、スーツは仕事着からファッションへという時代に入った。
当時の社長は3代目の父・久仁雄。その頃の「佐田」は、町のテーラーの下請けだけでなく、「そごう」など百貨店のオーダースーツまで手を広げ、急成長していた。1990年、久仁雄は中国・北京に縫製工場を建設。時代の波に乗り、拡大路線を突き進んでいった。
その頃、一橋大学に進んだ展隆はスキー部で活躍。卒業後は、家業に戻った時に役に立つだろうと、「東レ」に入社した。
だが、2000年、「そごう」が経営破綻。「そごう」は売り上げの大半を占める大口顧客だった。佐田は赤字に転落。しかも、北京工場建設の借金が重くのしかかり、存亡の危機に立たされた。展隆に父からSOSがあったのは、そんなころだった。
「戻ってきてほしいという言い方でした。私としては青天のへきれき。まだ29歳でしたから」(佐田)
だが、戻ってみると会社はとんでもないことに。これが「茨の道」の始まりだった。
「借金が約25億円、売上は22億円。普通は潰れていると思います。給料の遅配は日常茶飯事。父に対しては怒りしかなかったです」(佐田)
まだ続く「茨の道」~激安オーダースーツ逆転物語
再建を託された佐田は「何か新しいことを始めなければ会社はつぶれてしまう」と考えた。
そこで思いついたのが低価格のオーダースーツ。オーダースーツを1万9800円(+税)で。それは業界の常識を破るものだった。さっそく営業マンたちを町のテーラーに向かわせた。しかし、「うちの客はそんな安物は着ない」と、まったく相手にされなかった。
「黙っていてもサラリーマンの給料が勝手に上がっていく時代が長く続いたのがバブル。『もっと高く売りたいから』という話をされました」(佐田)
そこで佐田は、低価格オーダーに需要があることを証明するために、自社で実験店舗をオープン。初回お試し価格は1万9800円(+税)から。量販店の既製服並みの値段にした。すると、口コミでお客が殺到。狙いは見事的中した。
そんな評判が広まったある日、宮城の工場にひょんな話が。Jリーグのベガルタ仙台からの、選手用のスーツを作って欲しいという依頼だった。移動中の私服のスーツが「似合ってない」と、サポーターから不満の声があがっていたという。そこでSADAは無償でスーツを提供することに。するとサポーターだけでなく、選手の評判も上々だった。
「ベガルタの公式イベントでは必ず着用しているので、もうひとつのユニフォーム。非常に助かっています」(ベガルタ仙台事業本部長・坪佐光浩さん)
評判を聞きつけて、他のチームからも依頼が来るようになり、佐田の知名度は格段にアップ。その結果、業績はV字回復。佐田は改革わずか1年にして、赤字を黒字に変えて見せたのだ。
だが、その黒字が佐田をさらに苦しませることになる。
「黒字化したという話が業界に広まって行き詰まりました。『儲かっているという噂だから、今までためにためた未払い分を払え』と。でも先立つものがないので、払えないんです」(佐田)
結局、借金25億円の返済のめどは立たず、2008年、会社は投資ファンドの手に渡る。佐田は責任を取って会社を去った。
だが3年後、縁が切れたはずの会社から一本の電話が入る。「戻ってきてほしい」というのだ。実は2011年の東日本大震災で取引先の多くが被災し、SADAは再び赤字へと転落。投資ファンドもさじを投げ、すでに手を引いてしまっていたのだ。
「決め手になったのは従業員からの電話でした。会社を離れて3年になるのに『社長』と言って泣いている。これは断れないと思いました。祖父が『茨の道を行け』と言っていると思って腹をくくりました」(佐田)
会社に復帰した佐田は、現在のような製造小売りの業態へ変身を図る。そして2011年 利用客世界一の新宿駅前に旗艦店をオープンさせる賭けに出た。
宣伝費もないから、自らティッシュ配りも。ふたを開けてみると、わずか3週間で目標の倍の250着を販売。この成功を足掛かりに全国展開へ。日本一のオーダースーツ専門チェーンへと成長させたのだ。
新たな市場を開拓~女性がスーツを選ぶポイントは?
SADAで売り上げナンバー1の東京駅八重洲店。この店を仕切るのが、まだ入社3年目の女性店長、宮崎永美子(25)だ。
この店の特徴は女性客が多いこと。SADAはいま、レディースのオーダースーツに力を入れている。
これまでは既成のスーツで済ませる女性が多かったが、着心地の良さを求めて、今や客の1割が女性だという
ボトムはパンツとスカート、それぞれ3種類。女性のスーツ選びでポイントとなるのが、いかにスリムに見えるか。ポケット1つとっても「斜めだと、前のボタンを締めた時に少し腰回り強調されるので細くみえる効果がある」(宮崎)と言う。
こうした提案が出来るのも女性ならでは。女性客に嬉しいのが女性スタッフによる採寸。ほかにもさまざまな心遣いがされている。
「サイズは声に出ださないこと。ワンピースの方もいるので、試着のYシャツは用意しています」(宮崎)
SADAの53店舗のうち、女性店長は11人。まだまだ未開拓な女性市場を見据えている。
~村上龍の編集後記~
「迷ったら茨の道を行け」良い言葉だ。選択肢が複数あるとき、たいていもっともむずかしいやり方が正解で、佐田さんは祖父から教えられ、著書のタイトルとした。
だが、オーダースーツSADAを軌道に乗せるまで、佐田さんはまったく迷っていないのに、ずっと茨の道だった。先代の父親は膨大な借金を作ったが、今を支える北京工場とCADなど先進的なシステムをいち早く導入し、結果的に基盤となった。
一寸先は闇でもあり、夜明け前でもある。波乱万丈の人生が、オーダーメイドスーツの着心地の良さを生みだした。
<出演者略歴>
佐田展隆(さだ・のぶたか)1974年、東京都生まれ。1999年、一橋大学経済学部卒業後、東レ入社。2003年、株式会社佐田入社。2005年、社長就任。2008年、退社。2011年、佐田に再入社。2012年、社長に復帰。
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