独占インタビュー|シュムエル・シュニッザー(シュニッザーダイアモンド社 CEO兼取締役社長)
ダイヤモンド業界で50年近く活躍し続けるシュムエル・シュニッザー氏。毎朝オフィスで新しいダイヤモンドの入ったパッケージを開ける度に、鳥肌が立つとのことです。
「磨きあげられたダイヤモンドが最も美しんですよ。」
今回の取材では、シュムエル氏にイスラエルダイヤモンド取引所及び世界ダイヤモンド取引所連盟の会長を務めた経験、イスラエルのダイヤモンドへの情熱、日本におけるダイアモンド事業の歴史から現在、そしてこれからの発展の動向についてお話を伺います。
シュニッザーダイヤモンドの事業展開
イスラエルダイヤモンド取引所代表を務める父を持つシュムエル氏は、幼いころから贅沢品に囲まれて育ちました。
1952年に家族経営としてダイヤモンド事業を立ち上げたシュムエル氏の父。シュムエル氏が入社する前からアメリカ、香港、日本、ヨーロッパ、オーストラリアなど世界中で存在感を確立しています。
功績はさておき、シュムエル氏はダイヤモンドを加工する仕事から始めました。
「テルアビブにある家族が所有する工場で一年あまり働きました。後にラマトガンのオフィスでダイヤモンドの管理をまかされ、現在に至ります。」
ダイヤモンドは信用の購入
「信用がもっとも重要です。この業界人々は、信頼のあるところと取引します。宝石商全てが品質を理解しているとは限りませんが、私は正しい価値のダイヤモンドを適正価格で提供していると信用されています。」
ダイヤモンド事業とは商品のことだけでなく、人間関係のことでもあるとシュムエル氏は理解しています。信頼を得た上で、顧客とコミュニケーションをとることにより、彼はビジネスのトップまで昇りつめたのです。
2000年代初頭、紛争ダイヤモンドの存在が世界に知ら得るようになり、ダイヤモンド業界は大きな打撃を受けました。その時彼は、改めて信用の重要さに気が付いたと言います。
「血のダイヤモンド、私たちはそれを紛争ダイヤモンドと呼んでいますが、これにより売り上げは大幅に減少しました。当時アンゴラやコンゴなどのダイヤモンド生産国であるアフリカ諸国での内戦は、ダイヤモンド貿易から資金が流れていたと言われていました。」
「他のパートナーたちと協力し、汚名返上に着手することにしました。ダイヤモンド産業が紛争の原因でないということを証明したかったのです。そこですべてのアフリカ産ダイヤモンドに関して、正確な書類を必要とするメカニズムを開発しました。そして生産地を明記した証明書を添付し、それが紛争に関係していないことを証明しました。」
60年代70年代における日本のダイヤモンド黄金時代
60年代から70年代は日本のダイヤモンド成長期といえます。世界最大のダイヤモンド会社であるデビアスが日本に進出したとき、日本女性の16%しかダイヤモンドのついた婚約指輪をつけていませんでした。そしてデビアスの積極的なマーケティングアプローチにより、20年間で70%まで上昇させたのです。「ダイヤモンドは永遠の輝き」や「ダイヤモンドは女の親友」といったスローガンのもと、テレビや新聞、看板広告を使った巨大キャンペーンを実施しました。
世界最大のダイヤモンド市場として、イスラエルは理想的な輸出国でした。日本文化に惹かれていたシュムエル氏は、機会に恵まれ、日本のインポーターから人気を博すようになります。
「日本の方々は、イスラエルがダイヤモンド産業の中心地であることを高く評価しています。ここでは、最小のダイヤモンドから最大のダイヤモンドまで、あらゆる種類のダイヤモンドが手に入ります。さらに、長年にわたって、イスラエルのサプライヤーと日本の顧客は理想的な関係を築きあげています。私たちイスラエル人は、日本マーケットの需要と傾向をよく理解しています。日本の働き方に苦労している人もいますが、私たちは熟練しています。」
日本とイスラエル間のダイヤモンド貿易の活性化
90年代の終わりから2000年代初頭、日本経済は不況に陥いり、まず最初に高級品が大きな影響を受けました。
そのうえ90年代になると、地域の不安定さのため、イスラエル旅行に関して注意喚起をしました。
その結果、日本とイスラエルの貿易は急激に減少しましたが、シュニッザー氏は最盛期を取り戻すために取り組んでいます。
「イスラエル日本商工会議所の協力を得たイスラエルダイヤモンド取引所は、ダイヤモンド業界で働く若手の代表団を派遣し、次世代の人々と関係を発展させることを計画しています。」
「ダイアモンドは価値が変わらないと信じており、投資としての強みも感じています。”ダイヤモンドは永遠の輝き”というのは、単なるスローガンではありません。」
シュニッザー社 ウェブサイト
http://www.sschnitzer.com/