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国内シェア50%超~あのユニクロも頼る会社

ユニクロは常にトレンドのジーンズを揃え、これまで100種類以上を販売、大ヒットを連発してきた。そんなユニクロのジーンズには欠かすことのできない企業の存在がある。
その名前は、売り場にも堂々と掲げられている。「日本が世界に誇るカイハラ社のコットン」。コアなジーンズ通の間では有名な会社だ。

ユニクロのジーンズのポケットの裏側には「FABRIC BY KAIHARA」、カイハラの生地だとわざわざ明記されている。23の国と地域で展開するユニクロのジーンズ開発のトップ、松原正明さんは「カイハラさんの圧倒的な品質や技術は僕たちに欠かせないものです。特に染色の技術が素晴らしくて、カイハラさんだと味が出てくるんです」と語る・

世界最大手、アメリカのリーバイスもカイハラの取引先だ。リーバイスはジーンズの王道中の王道、501の歴代復刻モデルを蘇らせており、その生地にカイハラが使われている。

来日中のリーバイスのデザイナー、ポール・オニールさん(LVCディレクター)は、「10年ほど前にカイハラの生地を使って1960年代のモデルを作ったことがあって、その色落ちが綺麗でとても気に入っていました。だから今回のシリーズは、真っ先にカイハラを、と思ったんです」と言う。

さらに国内最大手のエドウインもカイハラの取引先。カイハラは量販メーカーから世界のハイブランドまで、300を超えるブランドにデニムを提供している。国内シェアは実に50%以上。つまり2本に1本はカイハラなのだ。

その実力は知れ渡り、ファッション雑誌にも頻繁に登場。『Pen+メイド・イン・ジャパンを世界へ!』では「世界が賞賛する、カイハラデニム」という見出しに始まって、30ページも割いていた。BtoB企業なのに、ここまで名声を集めている。

広島県福山市の中心街から車を走らせること1時間。田んぼに囲まれたのどかな景色の中にカイハラの本社はある。創業は1893年。明治の半ばから126年続く老舗企業だ。

さすがデニム生地のメーカーだけあって、社員は下から上まで、思い思いのデニムで働いている。カイハラ会長・貝原良治(76)のこの日のジーンズは「和紙で作ったジーンズです。軽くて夏は清々しい。バーゲンで安くなっていので買っちゃった」とか。

ジーンズの似合う著名人に贈られる「ベストジーニスト賞」に、貝原はプレゼンターとして登場したことも。ちなみに2014年、表彰した相手は小池栄子だった。

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「カイハラブルー」はこうして生まれる

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カイハラの工場に積まれていたのは原料となる綿、原綿だ。

「原綿から糸にして、それを織機で織り合わせてデニムの生地にするまでを行っています」(紡績課・中村克則)

カイハラの最大の特徴は、糸から生地まで作る一貫生産にある。通常、デニム生地は、紡績会社が糸を作り、染色会社がその糸を染め上げ、織布会社が布にして、整理加工会社が完成させる分業製造なのだが、カイハラはこれらの工程を全て行う日本で唯一の会社だ。このやり方なら、全ての工程でクオリティーを追求できるので、高品質な生地を作ることができるのだ。

糸をインディゴブルーに染め上げる染色の工程。よく見てみると、染め始めはグリーンだ。空気に触れると酸化し、独特なインディゴブルーに変わっていく。

染められた糸には大きな特徴がある。染め上がった糸を切って断面を見てみると、糸の中心部は染まっておらず、白いままになっている。

「デニム特有の、洗った後に生地の顔が変わっていくのを表すために、中が白いまま残っている必要があります」(染色課・瀧口修康)

色落ちして生まれるジーンズ特有の風合い。その色味は特に評価が高く、「カイハラブルー」とまで呼ばれている。

生地の仕上げの工程でも見たことのない光景が。機械の中では火で生地を燃やしていた。

「反物の表面の毛羽を焼いてきれいに加工する行程になります」(加工課・森義之)

生地の表面にある毛羽を焼くことで、ジーンズになった時に美しく見えるという。

全ての加工を終えた生地は、傷や汚れがないか、最後に職人が目でチェックしていく。高度な専門職のため、この作業に当たることができるのは社内試験に受かった人間だけだ。

清住恵美子はこの道16年のベテラン。かなりのスピードで流れていく生地をじっと見つめていたかと思ったら、機械を止めた。

「綿ゴミが織り込まれています。ここで見逃したものはそのままお客様に行ってしまうので、人の目でしっかり確認しています」(清住)

しかも抜き取りではなく、全ての生地を検査。厳しい目で世界に認められる品質をキープしている。

こうして生まれるカイハラデニムは年間2400万メートル。ジーンズにして2100万本にのぼる。現在、カイハラが持つ国内の工場は広島県内に四つ。ここから世界30カ国に自慢のデニムが広がっている。

カイハラの最大の強みは開発力にある。取引先が求める生地を自社で作り出す。前出・ユニクロの松原さんも「『できない』とは基本的に言わないです。『こうしたほうがいい』『そうやると品質はこうなる』と言ってくれる」と、その強みを認める。

現在、特に力を入れているのが機能性デニムの開発だ。例えば超撥水加工を施したデニム。水をこぼしてみると、全く染み込まない。一方、燃えにくいデニムは、化学メーカーのカネカが開発した燃えにくい糸を活用し、共同開発した。こんな画期的な生地も含め、カイハラは年間800種類もサンプルを作っている。

その影には、山ほどの失敗と「ため息」もある。貝原が案内してくれた先は、通称「ゴミ部屋」。保管されているのは、これまで作ってきた5000種類ものサンプル。実際に製品化されるのは3割程度。残りはゴミと化すのだが、捨てずにとっておく理由は、「お客様は常に新しいものを求めています。こういう要求がまたあるかもしれないと予測して持っているものもあります」(貝原)。

失敗を重ね、成功にたどり着く。非効率だが、これこそが生き残っていく要の戦略だ。 「何もしなければ、失敗もしないけれど、常に新しいものをマーケットに送り込むことが、我々の一番大きな使命だと思っています」(貝原)

品質を極める頑固なものづくりで、去年の売り上げは182億円に達した。

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広島の伝統繊維業から、世界的デニムメーカーへ

1969年のアメリカン・ニューシネマ『イージーライダー』。世界中の若者を熱狂させ、この夏亡くなったピーター・フォンダの出世作でもある。この作品の中でヒッピーと呼ばれた若者たちが自由の象徴として履いていたのがジーンズ。当時のアメリカもジーンズブームの真っ只中だった。

1970年代に入ると、ジーンズブームは日本にも押し寄せる。だがこの時、カイハラはデニムではなく、まったく別のものを作っていた。それは日本3大絣の一つ、備後絣。絣とは着物などに使われる、藍染した糸を織り上げた生地だ。

カイハラの創業は1893年。現会長の祖父・助治郎が起こした絣製造の個人商店から始まった。戦前・戦後にはモンペなどに広く使われ、会社は大いに儲かったと言う。

「儲かるたとえとして『ガチャマン』と言って、織機が『ガチャ』といったら万単位で儲かる。非常に儲かったということです」(貝原)

カイハラの作る絣は、特に染めの技術で評判が高かった。ずっと手作業でやってきた染色を、戦後は自社で機械化。作業効率を上げ、家業はさらに飛躍した。

しかし1960年代の後半になると絣の需要は激減。経営は一転、火の車に陥った。大手繊維メーカーで修行していた現会長の貝原は呼び戻され、家業の立て直しを託された。

そこで絣に代わるものとして目をつけたのがジーンズだった。「ジーンズの時代が来る」と確信した貝原は、デニムの糸の染色に乗り出す。

染色の機械は高かったため、自社で作ることに。本場アメリカの情報を集め、7ヶ月間、試行錯誤を繰り返す。そして完成させたのが、国内初のロープ染色機だった。そこには長年培ってきた絣の染色技術が生かされていた。

「いかに染色のいい状態を保つかというのは、絣で勉強しました。それはうちの強み。今までやってきたことだから、よく分かっている」(貝原)

デニムに参入して3年後、大きな転機が訪れる。アメリカ・リーバイス社との出会いだ。

きっかけは世界的なジーンズブームによる生地不足。リーバイスのバイヤーは生地を求めて日本にも買い付けに来た。日本の商社マンが用意していたカイハラの生地を手にすると、担当者は「こんなデニムが日本に!」と、驚いたという。

世界的メーカーのリーバイスから信頼を得ると、カイハラの知名度は上がり、取引先は国内外で一気に拡大した。貝原は1990年、社長に就任。翌年には紡績工場を建設し、これにより生地作りの全ての工程を行う一貫生産の体制が整った。

「お客様のためを考えたら、いいもの、満足できるものを供給するには、自社でやることが一番大事かなと思います」(貝原)

さらなる飛躍は1998年。ユニクロがカイハラの生地を使ったジーンズを作り始めたのだ。ユニクロの多店舗戦略は凄まじく、比例してカイハラの売り上げも大きく伸びた。

しかし2000年代に入るとジーンズ市場は飽和状態に。普通のジーンズでは売れなくなっていく。そんな時にユニクロが持ちかけてきたのが、「ヒートテック」の生地を応用した暖かなデニムの開発だ。だが、挑戦したものの、ヒートテックで使われる糸は伸縮性があり過ぎて織るのに難航した。

「デニム業界では初めての糸でしたから、いろいろな面で試行錯誤しました」(副会長・貝原潤司)

糸を引っ張る力など、あらゆることを1年間試し続け、ようやく完成にこぎつけたのが、デニムなのに暖かい「ヒートテックジーンズ」。表は通常のジーンズと変わらないが、裏面は起毛。だから驚くほど暖かい。2010年に満を持して発売すると大ヒット。瞬く間に冬のマストアイテムとなった。

「ヒートテックジーンズ」の成功を受けてカイハラは機能性デニムの開発を強化。得意の開発力を生かし「これまでなかったデニム」を作り続けている。

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時計、シューズ、ホテルまで~デニム一筋でいく

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これからも「デニム一筋でいく」と言う貝原だが、その生地が使われているのはジーンズだけではない。実は今、まったく違う分野からも脚光を浴びている。

東京・渋谷区の「ノット表参道ギャラリーショップ」で売っているのは、若者向けのカジュアルウォッチ。時計の本体とベルトは組み合わせられる。デニムのベルト「カイハラデニムストラップ」(5400円)もそのひとつ。この生地を作っているのがカイハラだ。カイハラは今までとは違う分野と積極的にコラボしているのだ。

カイハラと組んだノット社長の遠藤弘光満さんは、その人気ぶりに驚きを隠せない。

「2000本を夜12時から販売開始して、約20分で完売しました。カイハラさんとのコラボベルトはベルトの中では今年ナンバーワンのヒット商品になっています」

やはりカイハラとコラボしたのはオニツカタイガー。東京・渋谷区の「オニツカタイガー表参道」にはお馴染みのマークの靴が並ぶが、その中には今年8月に発売したばかりのカイハラデニムのスニーカー「メキシコ66パラティ」(9180円)が。かかとを潰して、スリッパのように履くタイプだ。

一方、広島の尾道の「ベラビスタ スパ&マリーナ尾道」は、あちこちにカイハラデニムをあしらったリゾートホテル。インディゴブルーの色味やデニムの手触りに癒されるひとときを楽しめる。

デニム一筋ながら、カイハラは攻め続ける。

~村上龍の編集後記~

「藍色の血が流れている」と、貝原さんは言った。藍色はジャパンブルーとも呼ばれ、サッカーの日本代表のユニフォームなどにも使われている。

だが、最優先でデニムに応用したのはカイハラだ。絣で培った技術でデニムを、と考えたわけだが、似ているだけに余計むずかしかったと思う。染色の手法が違い、雲をつかむような開発だったはずだ。

しかしカイハラは「必ずできる」と、精神の深部で確信していた。伝統は深く刷り込まれ、崖っぷちに立つ者だけを救う。

染められた原糸がグリーンから藍色に変わる、まさにアートの世界である。

<出演者略歴>
貝原良治(かいはら・よしはる)1943年、広島県生まれ。1965年、成城大学経済学部卒業後、繊維商社に入社。1969年、実家の経営危機のためカイハラ入社。1990年、社長就任。2003年、会長就任。

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