皆さん、こんにちは!
最近未来のことだけではなく、過去の予想されていることについても考えてみよう!と思うようになりました。
ライターのあやかです。
皆さんは普段未来と過去のどちらのことを考えることが好きですか??
今回は、皆さんに過去の事を知って頂きましょう。
そんな方に今回ご紹介したいのは、徳川家康が堺にて絶命??したという歴史です!
徳川家康って??
歴史を習う中で、誰もが知っているであろう「徳川家康」。
知らない人のために、簡単にご説明いたしましょう!!
徳川家康とは、主に戦国時代に活躍した代表的な武将の一人。
よく言われるイメージは、「江戸幕府を開いた人」ですね。
このイメージ以外でも家康は、様々な事をしてきました!
まず、彼が誕生した日は1543年1月31日です。早生まれなんですね。
三河国、岡崎城の松平家に誕生しました。松平家と言えばあの有名な「松平定信」。
徳川家康と血縁関係にあったことが分かります。
改姓したのは1567年。家名が「徳川」になりました。
1573年三方ヶ原の戦いがあり、対戦相手の武田信玄に惨敗したんです。
ですが関ヶ原の戦いで、名誉挽回。
武田信玄とは戦っていませんが、他の将軍たちを圧倒しました。
征夷大将軍に選抜されるなどの実績を残しています。
徳川家康自身は、とても慎重な性格であり、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」という有名な句もありますね。
そんな家康は、1616年6月1日にお亡くなりになりました。
堺にて絶命??
そんな慎重な彼の亡くなった理由で様々な説が飛び交っています。
まず家康の墓が、大阪府堺市の南宗寺にあること。
東部で特に力があった家康。なぜ堺にお墓があるのか??と多くの人に言われてきました。
その理由は、家康は元和2年(1616)4月17日に75歳で駿府城で亡くなりましたが、実はこの時に亡くなったのは影武者で、本物の家康はその11カ月前の大坂夏の陣で、既に無くなっていたのでは??という説があります。
え、そんなことあるの!?と信じがたいお話ではありますよね。 しかし、その説を信じた方が実際にお墓を作ったとか。
この説以外にも、乱射の被弾に合い、商人が秘密裏に住職にお墓を作らせたという説もあります。
説が沢山ある中、色々な人が徳川家康について、説を語り合っている場に遭遇してみたいですね。
まとめ
徳川家康をご存じの方は多いでしょう。
しかし、堺にもお墓があることを私も知りませんでした。
まだまだ知らないことは沢山あると思うので、これを機に沢山検索してみてください!
色々な説が飛び交っていてとても面白いです。
最後までご愛読いただきありがとうございます。 以上、「あやか」でした。
参考
徳川家康とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や名言、性格も紹介】
徳川家康の墓はどこにある?知られざる8つの事実とは
徳川家康は大坂の陣で討ち死にしていた!?~堺・南宗寺にある墓の謎