今まで、野瀬選手、松尾選手、中村選手……とイスラエルのバレーボールリーグで活躍する日本人選手たちを何人かご紹介させていただいたように、実は日本とイスラエルはバレーボールで深く、強くつながっています。そんな中、ほとんどコロナ規制のなくなったイスラエル21-22年の今シーズンは、3人もの日本人選手がイスラエルのバレーボールチームに所属して大活躍した年となりました。
今シーズンの女子決勝戦、手に汗握る接戦の末マカビー・ハイファを優勝に導いたキャプテン、セッターの南オソキン・早希選手にお話をうかがうことができました!
南選手、イスラエル滞在はすでに8年目。イスラエル人の旦那さんと結婚し、永住権を持つ「イスラエル市民」としてプレーしています(国籍は日本)。バレーボールプレーヤーとしての葛藤やこれからの夢など、たくさんのお話を聞かせてくださいました。
南選手の経歴
「今日は主人のお母さんが遠方から遊びに来てくれるんで、息子も幼稚園を休んで待ってるんです。もう、日本語もしばらく話してないんで、少し変になっちゃうかもしれませんけれど(笑)、今日はよろしくお願いします」
お住いのあるキブツ、クファル・マサリックの緑豊かでのどかな景色を背に、太陽のように明るい笑顔の南選手。キブツでの生活にもすっかりなじんでいらっしゃる様子で、お母さんとしての貫禄も感じます。
▲イスラエル北部にあるキブツ・クファル・マサリック。ここは旦那さんの所属チーム、マテー・アシェルのホームで、選手たちも皆ここに住んでいるのだそう。「マテー・アシェルの選手たちは皆、家族のように仲がいいんです」と、南選手。
▲キブツは緑も豊かで素朴な美しさ。生活はのびのびとしています。
「私の母がママさんバレーでかなり本格的にバレーボールをやっていたんです。その影響もあって、私もバレーボールをはじめました。6歳の時でした」
子供の頃から「当たり前のこと」としてずーっとバレーボールを続けてきたという南選手。
「高校は地元のバレーボールの強豪校、東九州龍谷高等学校、通称”東龍”に行きました。ここは伝統的に女子バレーボールで有名な学校で、優秀なバレーボール選手をたくさん輩出しているんです」
そう言われて、東九州龍谷高等学校をウィキペディアで調べてみると、「著名な出身者」の欄に、ずらずらと有名バレーボール女子選手の名前が連なっているのです。もちろん、南選手の名前もその中にあります。
「バレーボールの練習はずーっと、すーっごく厳しかったです。正直、”厳しい練習をしている”という自覚もないというか、そんなことを1ミリたりとも考える隙もないくらいの厳しさでした。
プロ選手になったのも、”悩んだ末の決断”とか”選択肢の中で選びとった”とか、そいういうのではなくてもう自動的という感じで、至極当たり前に進む道として契約書にサインをしたのです。高校2年生の時にはすでにプロ契約のオファーが来ていました」
そうして高校卒業後は山形県天童市にあったパイオニア・レッドウィングスに入団。3年後に上尾メディックス(現埼玉上尾メディックス)に移籍。日本では、本当にバレーボール一筋の人生だったのでした。
スランプと海外への道
「実は、海外に出る前の2~3年は、日本では伸び悩んだ時期というか、とても苦しい時期でもありました」とおっしゃる南選手。
「日本のバレーボールは世界的にもレベルが高く、選手は皆実力が拮抗していて、差がほとんどないんです。スランプから抜け出せず、日本では私はもうだめかな、でもこのままバレーボールをやめるのはもったいないなって、深く思い悩んでいた時期がありました。
だからある時、”向こう側に行きたい!”って憧れていた海外に挑戦しよう、バレーボールをやめるなら、海外でプレーするという夢をかなえてからにしよう! って決めて、上尾メディックスをスパっと退団して、移籍のために家で荷物のパッキングを始めたんです。行き先が決まっていないどころか、オファーも何もないのにですよ(笑)。長いスランプの間にメンタルもかなり参っていたのかもしれません。今からちょうど10年前、24歳の時でした」
海外への興味は、同じチームでプレーしていた外国人選手の影響が大きかったと言います。
▲監督の指示、試合の流れ、アタッカーのコンディション。コート上のすべてのことに気を配りながらも、「自分自身のことも心配しなければなりません」と南選手。セッターはチームのブレイン、重要な司令塔なのです。
「あの頃は私は英語も全然できなかったので、通訳さんを通して意思疎通をするんですけれど、アメリカやイタリアといった強豪国から来ている選手の、目の色が違うというか、気迫が全然違ったんです。外国から来て、言葉も文化も違う中で1シーズンプレーしてそしてまた別の国へ旅立って行く。そんな選手たちに大きな影響を受けました。聞きたいこともいっぱいあったのに、言葉も通じないから悔しい思いでした。一緒に練習する姿やオフの時間の姿を見て、私もやってみたい。”あっち側”に立って同じ目線でものを見てみたい、そう思ったんです」
初めての海外移籍はクロアチア
「今でこそ海外でプレーする選手も増えましたけれど、あの頃は私の周りで海外へ行った日本人選手はほんの数人でした。本来ならばエージェントを通してオファーを受けて海外のチームに移籍するのが普通です。でも、私の場合はちょっと変わった経緯で……」
そんな南選手は前述のとおり「海外でプレーするという夢をかなえたい!」と一念発起、行先もオファーもないのに所属していたチームを退団したという強者。
「それがちょうどその時期、上尾メディックスにクロアチアから日本のバレーを学びに来た監督がいたんです。その方が日本のバレーボールをすっかり気に入ってしまい、帰国の際に”日本のセッターを1人国に連れて帰りたい”と。”そう言えば1か月ほど前に、海外に進出したいからって退団したセッターがいる!”という運びで、私にクロアチア行きのお声がかかったのです」
▲アタッカーが一番打ちやすい場所にボールをトス。どんなボールでも位置やタイミングをぴったりと合わせる、セッターはとても高い技術が要求されるポジションなのです。
チャンスは常に、それを掴める人の元へやってくるもの。こうして、南選手は海外でプレーするという夢をかなえたのです。
「初めての海外のチームとの契約。海外での生活。英語もわからないし、エージェントもつけていなかったし、クロアチア語なんてもっとわからないし……。初めてのことだらけ、わからないことだらけでした。
それでも、クロアチアでの生活は本当に素晴らしかったです!到着した1日目から、毎日毎日が本当に楽しくて、1日が終わってほしくなかったし、夜寝るのがもったいないという気持ちでした。朝5時に起きた瞬間からとにかく街を見て回り、バレーボールを楽しみ、人と触れ合い、クロアチアを全身で感じ続けていたかった。毎日、クタクタ、ヘトヘトになるまで、一瞬一瞬が充実していました。夢のような2年間のクロアチア生活でした」
そしてイスラエルへ
それでも「クロアチアで学んだことを別の場所でも活かしてみたかった」と、さらなる向上心で次なる新天地を求め、今度はエージェントを通した正攻法で行き先が決まったのがイスラエル。
「私は日本でパイオニア・レッドウィングスに入社していた数ヶ月間、イスラエル人であるアリー・セリンジャー監督のもとでプレーしたことがありました。あの時の私はまだまだ若かったし、アリー監督は日本では大御所、まるで神様のような存在です。イスラエルに行くと決まった時は、あの、アリー・セリンジャー監督のいる国! と夢見るような気持の反面、イスラエルって戦争の国じゃないの? バレーボールなんてやってるの? という疑問がありました。
イスラエルについて何も知らなかったので、これをきっかけにいろいろと調べてみたのです。ヨーロッパとも日本とも違うイスラエル、面白そう! って思いましたけど、調べて、来て、この目で見るまでは”危ない国”という認識がどこかにありました。日本には、イスラエルの本当の姿があまり伝えられていないと思うんです」
イスラエルでの生活
イスラエルではハポエル・クファル・サバで2シーズン、キリヤット・アタで1シーズン、マカビー・ハイファで2シーズン、合計5シーズンをプレイした南選手。
▲イスラエルに来て1年目、クファル・サバでプレーをしていたころ。イスラエルに来てすぐのシーズンでイスラエルカップ及びリーグ戦とも優勝を勝ち取ったそうです!
▲イスラエルに来て初めて所属したチームはハポエル・クファル・サバ。
今年は、キャプテンとしてマカビー・ハイファをリーグの優勝に導きました。
「イスラエルのチームは外国人選手枠が4人あるうえ、ユダヤ人であればイスラエルに帰還することでイスラエル人選手としてチームに参加することができます。とにかくバラエティーに富んだチームなんです。言葉が違うだけでなく、文化的背景もそれぞれがまったく違うチームメンバーたち。個性豊かな選手たちの特徴を殺さずに、その特徴をチーム全体としての力に変えるように導いていく。これは本当に大きな挑戦でした」
南選手のポジションは、チームの司令塔であるセッター。監督、コーチ、選手それぞれとコミュニケーションをとり、相手チームの様子や試合の流れを見ながら瞬時に作戦を組み立て、それを実行する冷静さと高い技術力が要求されます。
チームの話をする時の南選手は、完全にチームを引っ張るキャプテンの顔です。
▲試合前に気合を入れるチーム。今年のマカビー・ハイファは本当に強かった!個性派ぞろい、粒ぞろいの選手たち。
「バランスが難しいです。特に外国から契約でやってきた選手たちは自分の”商品価値”をよくわかっています。プロですから当たり前です。毎シーズンが次のシーズンへのステップとなるわけですから、実力がものをいいます。
自分を良く見せたいと思う選手の思惑と、監督が指示する勝つための次の一手が常に一致しているとも限りません。ゲームが思わぬ方向に進んでいくこともあります。だから最初にたてた作戦や監督の指示に盲目的に従えばいいというわけでもないのです。
日本ではあり得ないことかもしれませんが、こちらでは監督の言うことでも納得できなければ従わなかったり、意見をするなんてことは普通にあります。どうして今、このプレーをしなければならないのか。これは練習中もそうですけれど単に”やれと言われたからやる”というプレーはないです。理由が理解できてこそ全力を出すという感じですので、選手たちの気持ちやコンディションも尊重しなければ、チームはまとまらないのです。
試合中にそんなことを気にしつつも、自分自身の精神力や体力、技術の面も1秒たりともおろそかにすることはできません」
「初めての海外が楽しくて仕方なかった!」と、クロアチアに来たばかりの日々を嬉しそうに、無邪気なはちきれんばかりの笑顔で話してくれた同一人物とは思えないほど、厳しく、そして成熟した大人の表情です。
▲一つ一つの試合の積み重ねが、優勝への道です。勝利を喜ぶチームメートたち。
南選手の話は続きます。
「実は、私の主人もバレーボール選手で、彼はハポエル・マテー・アシェルというチームと、あと、イスラエル・ナショナルチームのキャプテンをやっているんです。
イスラエルに来た1年目、リーグが始まる前に毎年行われるトーナメント戦の決勝の時に知り合ったんですけれど、彼はその時からマテー・アシェルでプレーしていました。
私が日本でプレーすることになった同じ年に、彼も日本でプレーすることが決まって一緒に日本に行きました。でも、日本は国土が大きいですから。所属チームが違ったので、同じ国にいても結局遠距離恋愛でしたね(笑)。それでも、日本にいる間に結婚しました。イスラエルでの結婚は宗教の関係でいろいろと複雑なので、日本にいる間に籍を入れてしまおうということになったんです」
▲コロナ禍のロックダウン中はキブツのフィールドを毎日お散歩したそうです。自転車はキブツの主要な交通手段です。
南選手はハポエル・クファル・サバで2シーズンをプレーしたあと、日本の埼玉上尾メディックスで1シーズンプレーしたのですが、日本に戻って、日本のリーグの素晴らしさにあらためて気づいたと南選手は言います。
「完璧なんです。もう、何もかもが。栄養管理の行き届いた食事が準備されて、体の調子を整えてくれる専門家もいる。私がいたクロアチアでも、イスラエルでも、こんなことはあり得ないです。設備も道具も、比べ物になりません。日本にいた時は自分がこんなに恵まれた環境に身を置いていたということにまったく気づいていませんでした。
あまりのすばらしさにずーっと感動していたら、チームメイトには”いつまで驚いてるの?”と言われてしまいました(笑)」
さらに南選手は日本の若い選手たちのことについておっしゃいました。
「日本に戻ってみると、外国でプレーしてみたい、そう思って私に相談してくる若い選手たちがたくさんいました。他チームからもです。それに、スランプで苦しんでいる選手たちも目にしました。4年前の自分の姿と重なるところもあり、私は、もっと広い世界を見てみたいと思っている選手たちのお手伝いをしたいと思いました。
一度日本から出ることで、今まで見えていなかったことも見えるように、視野が広くなることがあるのです。
それに、毎日が楽しかったクロアチアの日々、様々な文化的背景を持った人たちが集まってプレーするイスラエル……日本とは異なる環境を、日本の若い選手にもぜひ体験してもらいたいと思っているので、私にできることがあればそういう選手たちを応援したいのです」
母親として、アスリートとしての葛藤
若くして日本を離れ、外国でアスリートとしてのキャリアを積んだ南選手。すっかりベテランですが、それでも彼女は新たな壁にもぶつかりました。
「日本からイスラエルに戻って、しばらくして私は息子を出産しました。その3か月後にマカビー・ハイファと契約したのですが、やっぱり出産してすぐは体がきつかったです」
▲「スポーツ選手にとって自分の体は自分でコントロールするものでしたから、妊娠中は自分のお腹が自分の意思とは関係なくどんどん大きくなることに驚きました」と南選手。でも、とっても美しいです!!
骨盤など、体が元に戻っていないだけではありません。授乳も母乳からすぐにミルクに切り替えなければならなかったし、とにかく子育てで忙しかったです。夜寝る間もない、自分の食事をいつとったかも覚えていない、そんな中での試合、練習です。
一歩家の外に出てユニフォームを着れば、気持ちをバレーボールに集中するように切り替えましたけれど、試合が終わればシャワーを浴びる間も体を整える間もなく車に飛び乗って、小さな息子が待つ家に向かって一直線です。
うちは主人も私もバレーボールプレーヤーですから、練習の時間帯も同じだし、リーグが始まったり遠征があれば、2人とも似たようなスケジュールで家を空けることになってしまうんです。そんな時は小さな息子をベビーシッターに預けます。
息子に対して申し訳ないというか、自分がプレーヤーとしても母親としてもどちらも中途半端というか。今でもいろいろな葛藤がありますけれど、あの時期は私にとって本当に苦しい時でした」
▲息子さんがまだ1歳になる前の頃。「練習がない日はこうやってゆっくり一緒にいることができました」と、幸せそうな南選手。
そうして乗り越えた1シーズンの後は、契約は更新せずに子育てに集中する時間をとったそうです。
「次のシーズンはさすがにもう無理で、契約は続けなかったです。でも、その年はコロナでリーグも途中で中止になってしまったので、まあ、それはもうどちらにしろ仕方なかったのかなとも思いました。
チーム内や他チームにもお母さん選手はいますけど、本当に皆さん良く頑張っていると思います。特に小さい乳児がいるうちはお母さんは大変ですね。夜中に何度も起きて授乳したり、規則正しい食事の時間も取れず、フラフラになりながら練習に来るお母さん選手もいます。うまくプレーできないと、ものすごく自分を責めて落ち込む選手もいます。ホルモンバランスも崩れているから、本当は精神状態も体もいつもの自分ではないのです。”無理はしないで”、”怪我にだけは気を付けて”……私はお母さん選手達にどうしてもそんな声をかけずにはいられないのです」
「これほどのセッターは、イスラエルにはいない」といわれるほどの高度な技術に加え、精神的な安定や細かな気遣いにも定評のある南選手。イスラエルバレーボール界にはなくてはならない無二の存在です。
▲ボールがどこに行ってもアタッカーにボールをセットする。「こんなに正確なセッターは他にいない」と評判の南選手。
「体を酷使しすぎて、痛み止めの注射を打って試合に出たこともあります。痛み止めの注射ってとても良く効くので”わあ~!もう治った!”って言ったら、”スポーツ選手は体を使いすぎるから、痛くなければ大丈夫と思うかもしれないけれど、考えているよりも体はずっと傷ついているし取り返しがきかないこともあるのだから大切にするように”とお医者さんに怒られてしまいました。
でも本当のところは、体のコンディションや体力の問題よりも、保育園から帰ってきた息子と一緒にいてあげられないことのほうがとても辛いんです」
▲金曜日、キブツのシャバット・ディナー。食堂は、キブツの中心的な場所です。
▲南選手の旦那さんと息子さん。バレーボール選手であるお父さんの肩車はとっても高い!!
母親になれば、女性は常に2足、3足の草鞋をはいているようなもの。それでもどう頑張っても体は1つですから、自分の中で折り合いをつけて切り替えなければなりません。2つも3つもある役割のすべてに体を100%投入することは不可能とわかっていても、どうしてもぬぐえない罪悪感があるのは、母親である筆者も痛いほどわかります。この後、南選手とは母親業と仕事の両立についての話がひとしきり盛り上がりました。
特に、体を資本とするスポーツ選手の母親としての葛藤、それは想像を絶するものでした。
それでも南選手は言います。
「私たちはキブツに住んでいて、子育てに関しても本当にいろいろな人に助けてもらっているんですよ。それは本当に良かったと思っています。それでもキャリアと子育ての両立、これは簡単に1つの答えが出ることではないです。常に葛藤です」
▲スカイ君、2歳。オフシーズン中は南選手も息子さんと一緒に毎日キブツを走り回っていたそうです。
▲息子さんとお家でリラックスのひと時。試合中とはうって変わって、優しいお母さんの南選手。
これからの夢は「イスラエルと日本の懸け橋になること」
「海外でバレーボールをプレーをしたい!」スランプに伸び悩み、外国人選手の気迫に影響を受け、日本を飛び出してから10年間。現在の南選手はイスラエルのリーグ戦優勝チームのキャプテンとして、押しも押されもしない大ベテラン選手の貫禄すら漂います。
今後についての質問をすると次のように答えてくださいました。
「来シーズンはどうしようかすっごく悩んでいます。
オファーの話も少しずつ出てきていますが、でも、バレーボールはもうやり切った感というのも、実はあるのです」
▲サーブの瞬間。この1球に全集中力を注ぎます!
「まだ具体的なことは確定していないですが、大好きなイスラエルの本当の姿をもっと日本の人にも知ってもらいたいし、若い選手たちにはもっと世界を見てもらいたいと思っているので、今後はバレーボールに限らず日本とイスラエルをつなぐ懸け橋になるようなことをしたいと思っています。そして、イスラエルの人たちにも本当の日本を伝えたい、日本を身近に感じてもらいたい、そう思っています。どんなことができるか、まだわからないんですけれど……」
インタビューの合間にも「”キブツに住んでる”って言っても、キブツが何か読者には伝わるかしら?」「ユダヤ人がイスラエルに帰還するって意味、通じるかしら?」と、メッセージを受け取る側が理解しやすいようにと常に気にかけて下さった、南選手。
記事を書く身としても、間違ったことを伝えないようにと気持ちが引き締まる思いと同時に、南選手の優しさと気遣い、さらに「本当のイスラエルを日本に伝えたい!」という強い気持ちを感じました。
(そのお気持ちを無駄にしないよう、以下に*キブツと**ユダヤ人の帰還についての簡単な説明を書き添えますね!)
来シーズンも南選手のプレーが見られるかどうかは未知数です。「どちらかというと、来シーズンはプレーしない方向に向いているのです」とおっしゃる南選手。一ファンとしては南選手のプレーを見られないとなると本当に残念ですが、選手を続けるとしても、新しい道を切り開くとしても、南選手ならきっとやり遂げる、そう信じています。これからも引き続き応援していきます!ぜひ、頑張ってください!
▲勝利の後の記念写真。チーム一丸となって戦った後の清々しい笑顔!
*キブツとは……イスラエルの特徴的な村落形態の一種。キブツでの生活は家族単位でなく、共同社会的な集団生活が行われていました。すべてのものを共有し私有物のない生活で、子供の教育や生活に必要なものはすべてキブツ内でまかなわれるという徹底した集団生活が行われていました。現在では以前のような集産主義的な生活を続けるキブツはほとんど存在せず、普通の村と変わらない暮らしになっていますが、イスラエルに250か所以上あるキブツが建国に果たした役割は大きいと言われています。
**ユダヤ人の帰還とは……イスラエル建国の目的の一つはユダヤ人の救済です。1950年にイスラエルで制定され、その後改定を経た「帰還法」により、ユダヤ人及びその家族にはイスラエル国籍の付与が認められました。イスラエル国外で生まれ育った者でも、ユダヤ人ならばイスラエル国籍を取得することができるのです。
▲キブツの敷地全部が庭の様なもの。南選手の息子さん、スカイ君の将来も楽しみです。