2代目社長が〝働きたくなる会社〟へ改革。意思疎通の活発化へICT活用進化中 シーベル産業(群馬県)

目次

  1. 創業社長の行動力で事業を拡張、相次ぎ工場新設
  2. 劇作家の道を歩んでいた長男(現社長)が旧満州の地に魅かれて大連工場に勤務
  3. 本社に転勤し、深刻な経営状況を知る 借金を返済するために借金の繰り返しだった
  4. 社員一人ひとりは素晴らしい人材 組織が活用できていないだけと悟る
  5. 父親を説得、リーマン・ショックの最中に大ナタを振るう
  6. 社内の意思疎通を活発にし、人の尊厳を大事にする会社に
  7. 全面糊殺しシールを開発、独自商品「スウィングPOP」を生む
  8. デザイン力にも磨き コンテストで上位入賞の常連に
  9. 2000年頃にローコードデータベースソフトを導入。順次機能を増やして基幹システムに
  10. 社内コミュニケーション活発化へ最適なグループウェアを模索
  11. 「この会社で働きたいなと思ってもらえる会社かどうかというのが自分の中の合格ラインであり、未来につなげていける会社にするというのを自分の中のゴールにしようと思っています」
中小企業応援サイト 編集部
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会社をゼロから立ち上げて拡大路線に乗せ、成功体験を積み重ねてきた創業者は、経営環境が急変しても簡単には路線変更できないものだ。群馬県邑楽郡千代田町でシール・ラベルの印刷業を営むシーベル産業株式会社の2代目代表取締役社長、黒沼健一郎氏はそんな父親との葛藤の末に、経営を引き継いでリーマン・ショック直後の経営危機を乗り切り、技術力とデザイン力に定評のある会社へと生まれ変わらせた。健一郎社長が目指したのは働く人たちの人間性の回復であり、誰もが入りたくなる会社にすることだった。今もなお、その目標をさらなる高みに上げていこうとしており、社内の意思疎通を活発化するソフトウェアの活用を模索している。(TOP写真:シーベル産業の本社工場)

創業社長の行動力で事業を拡張、相次ぎ工場新設

2代目社長が〝働きたくなる会社〟へ改革。意思疎通の活発化へICT活用進化中 シーベル産業(群馬県)
シーベル産業本社

シーベル産業は1976年、大手印刷会社で働いていた黒沼光生氏(前取締役会長)が脱サラして創業した。1979年の会社設立時は「株式会社三光シーベル」という名称だったが、後のコーポレートアイデンティティー(CI)活動の一環で現社名に変更した。「シーベル」というのはシールとラベルの合成語で、光生氏が発案した。光生氏は後に町会議員も務めるなどかなり行動力のある人だったようで、大手の取引先を次々と獲得し、1993年には千代田町の工業団地に現在の社屋と工場を新設。新鋭の印刷機械を次々と導入し、事業を拡張していった。

2000年に近隣の大泉町にも工場を新設したのに続き、2001年には大手取引先の中国市場進出に伴って中国大連市に工場進出。2005年には邑楽町にも工場新設とまさに破竹の勢い。1980年代には企画・デザイン専業の子会社を設立したり、自動車用ステッカーなどのファンシー雑貨を個人消費者向けに直接販売する店舗を構えたりもしている。

劇作家の道を歩んでいた長男(現社長)が旧満州の地に魅かれて大連工場に勤務

2代目社長が〝働きたくなる会社〟へ改革。意思疎通の活発化へICT活用進化中 シーベル産業(群馬県)
入社する前には「魅力的な会社とは思えなかった」と話す黒沼健一郎代表取締役社長

ただ、創業の年に生まれ、自宅兼工場で印刷機の音を子守歌代わりに聞いて育った光生氏の長男、健一郎氏の目にはシーベル産業は決して魅力的な会社とは映らなかったそうだ。「父には良い会社なんでしょうけど、私にはそうは見えませんでした。夜の10時とか11時まで当たり前のように残業をしていて、人を大事にしていない会社だと感じていたのです」

日本大学芸術学部演劇学科で劇作を学んだ健一郎氏は劇作家の道を歩み始める。自ら劇団を主宰し、自作の劇を上演していた。だが、2001年に6本目の公演を終えた頃から劇作家としての能力に限界を感じるようになったという。「自分の体験したことの応用からしか書けない」というわけだ。

ちょうどその時、父親の光生氏から中国大連市への子会社工場設立を手伝わないかと声がかかる。尊敬する劇作家に旧満州出身者が多いことから、彼らが育った土地に興味を引かれたのと、自らの体験の幅を広げたいという思いもあり、現地を視察。そこで「圧倒的な社会のエネルギーを感じた」そうで、2001年12月、7回目の劇団公演を行ったあと、シーベル産業に正式に就職し、入籍も果たした。2005年春までの3年間を夫婦で中国に駐在し、印刷の仕事を覚えながら中国語や中国文化を学んだ。

本社に転勤し、深刻な経営状況を知る 借金を返済するために借金の繰り返しだった

帰国後の2年間は東京にある印刷業後継者専門の学校に通って経営を学びながら、夜は演劇の稽古を行うという二足のわらじ生活を続けていた。しかし、2007年春に群馬の本社に転勤、経営企画室を担当するようになると、会社の経営状況が深刻な事態に陥っていることを知る。借入金が膨れ上がり、金融機関に借金を返済するためにまた借金をしないとキャッシュが回らないという状態だった。

それでも当時の光生社長は、攻め一辺倒の姿勢を崩そうとしない。健一郎氏の目には「火事が起きているのに、まともな消火活動を行わないばかりか、逆に家を建て増しているような状況」と映った。本社工場と近隣の4工場は統制された運用ができておらず、それぞれ好き勝手に仕事をしているように見えた。「拡大することで銀行さんがお金を貸してくれるというサイクルに乗ってきた父にとって、工場を縮小したり、統合したりするということは体裁が悪いことだし、自分の中で肯定的なビジョンを描けなかったのだと思います」

社員一人ひとりは素晴らしい人材 組織が活用できていないだけと悟る

ワンマン経営の弊害で、役員や幹部社員らが参加する経営会議では誰もが黙って時間をやり過ごそうとしていた。ただ、その一人ひとりを知るにつけ、それぞれが自分の仕事に責任を持ち、実力も備えている素晴らしい人たちばかりだとわかってきた。組織が彼らを活かせていないだけなのだ。そこで健一郎氏は「私が継がないと誰も立て直せない」と覚悟を決める。考えてみれば、自分をこれまで好き勝手にさせてくれたのは、この会社があればこそのことだった。劇作家の道はきっぱりと断念した。

父親を説得、リーマン・ショックの最中に大ナタを振るう

健一郎氏は光生社長の書き方を踏襲してA4用紙1、2枚にまとめた事業計画書を作り、光生社長と何度も直談判した。最初は「理想論だ」と鼻で笑われ、「二代目は守りに入るからダメだ」とけんもほろろだったが、「理屈を言えばわかる人だったので、だんだん理解してもらえるようになりました」。

リーマン・ショックの直撃で2009年10月期決算の赤字転落が必至となる中、大ナタを振るう。邑楽工場を除いて近隣に散在していた工場と子会社を本社に統合。本社工場と邑楽工場、それに中国・大連工場の国内外3工場体制にスリム化したのだ。同年12月の株主総会で、当時33歳だった健一郎氏が代表取締役社長に就任。光生氏は赤字決算の責任を取る形で取締役会長に退いた。

その後、2015年に邑楽工場も本社工場に統合し、現在の国内外各1工場体制とした。「銀行さんからの借入金を管理するのはそう難しくないのですが、未回収の売掛金など目に見えない負債も片づけるとなると大変で、当初は負債レベルを適正化するには30年かかると思っていました。それが2022年10月期で達成することができました」と健一郎社長は頬を緩める。

社内の意思疎通を活発にし、人の尊厳を大事にする会社に

経営立て直しの一環として健一郎社長が取り組んできたのが社内コミュニケーションの活発化だ。「私自身の武器はそれしかないので、社員一人ひとりにアプローチして、その人たちの良いところを活かして、会社の利益につなげてもらうということを常に考えてきました」。役員、幹部の10人程度とは毎月、1対1で話し合い、その他の社員とも定期的に意見交換する機会を設けてきた。同時に残業を大幅に減らすなど働き方改革を推進、健一郎社長と同じ色眼鏡で会社を見ていた人たちの固定観念を払拭し、「人を大事にする会社」へと社員の意識も変えた。

全面糊殺しシールを開発、独自商品「スウィングPOP」を生む

2代目社長が〝働きたくなる会社〟へ改革。意思疎通の活発化へICT活用進化中 シーベル産業(群馬県)
セパレータ上の糊なしスウィングPOP
2代目社長が〝働きたくなる会社〟へ改革。意思疎通の活発化へICT活用進化中 シーベル産業(群馬県)
商品の容器に貼られたスウィングPOP

その結果、製造現場からさまざまな技術提案が出てくるようになった。2018年の企画会議で提案された「全面糊殺しシール」もその一つ。シールの糊面の一部に特殊なインキを使って糊がつかないようにすることを「糊殺し」というのだが、当初メーカーからはせいぜい糊面面積の30%までが限界とされていた。それを100%に広げられる技術を開発したというのだ。

糊がついていないのにセパレータが剥がれないすごい技術だと感心したのはいいのだが、使い道が見つからないまま1年ほど放置された。その後、営業担当者が化粧品などの容器に合わせてどこにも貼れて、触れると揺れて目立つPOPを作ったらどうかと提案。糊面の端にわずかに糊を残してもいいし、表面に細い帯状の両面テープを貼り合わせてもいい。この全面糊殺し技術を使えば、いずれの方法でも、パートタイマーの手を借りることなく、ワンラインで自動印刷できる。シーベル産業独自開発の「スウィングPOP」が誕生した瞬間だった。

デザイン力にも磨き コンテストで上位入賞の常連に

2代目社長が〝働きたくなる会社〟へ改革。意思疎通の活発化へICT活用進化中 シーベル産業(群馬県)
2023年のシールラベルコンテストで全日本シール印刷協賛会会長賞を受賞した日本酒のシール

デザイン力にも磨きがかかった。2017年に世界ラベルコンテストで最優秀賞と審査員特別賞をダブル受賞したのをはじめ、シール・ラベルのデザインコンテストでは上位入賞の常連だ。老舗の餃子専門店の包装類のデザインを全面的に刷新する仕事を受注したり、洋菓子店の独自のキャラクターの制作を依頼されたりと、シール・ラベル以外の商品へと事業を拡張する牽引(けんいん)力となっている。

2000年頃にローコードデータベースソフトを導入。順次機能を増やして基幹システムに

2代目社長が〝働きたくなる会社〟へ改革。意思疎通の活発化へICT活用進化中 シーベル産業(群馬県)
社内の風景。ローコードデータベースソフトを基幹システムとして活用

シーベル産業が業務プロセスのICT化、デジタル化に取り組んだのは健一郎社長が入社する前の2000年頃のことだという。パソコンのOSはWindows98の時代だ。ローコードで開発できるデータベースソフトを導入、まず営業担当者が受注した内容を4枚綴りの伝票に手書きしていたのをデジタル化し、受注システムとして活用を始めた。

ローコードデータベースソフトはさまざまなデータを関連付けられるので、材料リスト、商品リストといったデータベースに発展し、そこから生産管理、材料発注、生産日報、計算日報といった機能が追加され、売上管理ソフトとも連携。また、バックオフィス業務では資産管理や人事管理にも使われるようになった。いわばシーベル産業の基幹システムとして稼働しているわけだ。

ただ、健一郎社長は今ひとつ物足りなさを感じているようだ。「継ぎ足しでシステムを構築してきた上に自由度が高すぎるソフトなので、全体的に統一感がないというか、ある機能はきめ細かいが、別の機能は粗いなどまばらな感じがします」と話す。ローコードとはいえ、現状、健一郎社長も含めて3人しかローコードデータベースソフトを扱えないのも何とかしなくてはいけないと考えている。

社内コミュニケーション活発化へ最適なグループウェアを模索

今、健一郎社長が模索しているのが社内コミュニケーションをより活発にするためのグループウェアの導入だ。2015年から某グループウエアをスケジュールと掲示板を社内で共有するために使用してきたが、2020年のコロナ禍をきっかけに大手ソフトハウスのビジネスチャットツールを導入すると、メールやメッセージ機能での情報共有が「すごく良くなりました」と言う。ただ、このビジネスチャットツールは〝川〟のように情報が流れ去ってしまうイメージなので、〝溜池〟のように情報が滞留しているソフトが欲しいと考え、ドキュメント管理に適したさまざまな機能を搭載したオール・イン・ワンツールと言われるソフトを試しているところだという。社員が会社の経営理念や就業規則などの文書に自由にアクセスできる仕組みを作り、「オープンブック経営」(財務諸表や行動指針を社員の人と共有することで経営参画意識を高める経営)に発展させたいと考えているようだ。

「この会社で働きたいなと思ってもらえる会社かどうかというのが自分の中の合格ラインであり、未来につなげていける会社にするというのを自分の中のゴールにしようと思っています」

2代目社長が〝働きたくなる会社〟へ改革。意思疎通の活発化へICT活用進化中 シーベル産業(群馬県)
群馬県社会人サッカーリーグ1部の「邑楽ユナイテッドFC」のスポンサーを務める

今後の目標について、健一郎社長は「この会社で働きたいなと思ってもらえる会社かどうかというのが自分の中の合格ラインであり、未来につなげていける会社にするというのを自分の中のゴールにしようと思っています」と即答。

そして、「経営者を辞めると自分の拠って立つ足場を失ってしまう人がいます。私もいずれ経営者を辞める時が来ますが、その時の自分の足場をイメージして、演劇など書く環境は残しておきたいと思います」と語った。

企業概要

会社名シーベル産業株式会社
住所群馬県邑楽郡千代田町昭和2-6
HPhttps://sibel.co.jp
電話0276-86-5555
設立1979年4月(創業1976年5月)
従業員数49人
事業内容シール、ラベルの印刷